衛藤 昂(映画監督)


プロフィール

大分市出身。カナダ・バンクーバー在住。株式会社アモルファスフィルム代表取締役。 オーストラリア、カナダで映像を学び、長編映画「FLOATING AWAY」脚本・監督を務める。 大分では豊後高田市のPR動画「恋叶ロード」、大分市の観光PR動画「SARU TABI」などを監督。

 

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映画に興味を持ったのは小学生の時です。友達とジャッキー・チェンの映画を見て映画のスタントマンになりたい!と思いました。スタントマンになるためにまずは体を鍛えようと中学では柔道部で汗を流しました。中学を卒業したら、すぐに映画の世界に行こうと思っていましたが、親から「高校だけは行ってくれ」と言われ、仕方なく高校に進学。やりたいことがあるのにできない。高校時代は人生で一番嫌な三年間、地獄でした。学校の授業はそっちのけで、色々な映画を見ているうちに、ヨーロッパの映画が好きになりました。綺麗な映像だな…、カメラで撮っている人がいるんだな…、映画って監督がいるからできるんだ…と、徐々に映画の裏方に興味を持ち、海外の映画専門学校で学ぼうと決心しました。高校卒業後は、留学費用を貯めるためにバイトざんまいの日々でした。大分市の東洋ホテル(現レンブラントホテル)でウェイターを、クロネコヤマトで引っ越しの仕事を、朝は魚のせりをやり、夜は居酒屋の店員と働きづめの中、映画鑑賞と英語の勉強もやり続けました。お金が貯まって準備が整い、2009年の24歳の時に、オーストラリアの映画学校に留学しました。

オーストラリアの映画学校では日本人は僕一人でした。英語は勉強していたので大丈夫だろうと思っていましたが、最初の授業で先生が話していることが一言も分からずショックでした。英語が分からないこと、うまく話せないことは苦痛でしたが、毎日学校に通いました。転機となったのは学校プロジェクトの短編映画制作。生徒がプレゼンをして、監督が選ばれる形式でした。同級生がトーク主体でプレゼンをする中、英語が話せない自分はプレゼン時間の間、作りたい映画のイメージ動画を流し見てもらいました。結果は、60人中3人選ばれて、自分も監督をすることに。制作が始まると20人ぐらいのスタッフ(同級生)から、現場はもちろんメールや電話で映画作りについて質問を受ける日々が続きました。辞書を引きながら、コミュニケーション重ね、人生初監督作品が完成しました。作品は学校行事で上映され、撮影賞と編集賞を受賞しました。一般の方も学校に招き上映会が開催されました。上映後、皆さんから拍手をもらった時、嬉しくて足が震えました。ステージ上で司会者から「映画を作り続けてくださいね」と言われ、こういう風に多くの方に楽しんでもらえる映画を作り続けていきたいと思いました。

オーストラリアで2年間映画を学んだ後、大分に帰りました。大分ではテレビ番組制作の仕事をしましたが、もっと映画の勉強がしたい!と思っていた時に、ロータリークラブの国際親善奨学生のことを知り応募しました。面接を受けて合格。2011年にカナダのバンクーバーの大学に留学することになりました。オーストラリアの映画学校では映画全般を学びましたが、バンクーバーでは撮影学科を専攻しました。映画は言葉じゃなく映像を言語として物語を語るものだから、撮影・カメラに特化して学びたいと思いました。カナダでは、ジェット・リーやスティーブンセガールの映画を撮影したカメラマンの先生と出会い、専門的なことをたくさん教わりました。撮影技術以外に教わったことは、ネットワークの重要性です。「映画制作に携わるには、ネットワークが大切だから、ボランティアでもなんでもいいので撮影現場に参加しなさい」と教わり、時間があれば、ボランティアで撮影に参加し、関係者に顔を売っていました。大学卒業後は、ボランティアで知り合った人からの紹介で、ミュージックビデオなどの監督や撮影、編集の仕事をしました。ある日、映画が作りたい!と思って脚本を書き、バンクーバー中のプロデューサーに会いにいきましたが「お金もなく、英語も完璧じゃない人に映画を依頼できない!」と断られる日々…。半年ぐらい映画制作に向けて動き続けていると、日本人から連絡がありました。会ってみると28歳の若い人でした。

その人は、日本で『永遠のゼロ』や『海猿』などの映画プロデューサー経験のある方で、ワーキングホリーデーで1年間バンクーバーに来ていた人でした。映画作りの話をすると「一緒にやろう!」ということになり、まずは制作費を集めることに。植木の見本市に押しかけ「映画を作りたい!」と書かれた手書きボードを持ってまわったり、ラジオで寄付を呼びかけたり、クラウドファンディングで100万円集めたり、ちょっとずつ制作費が集まり、手伝ってくれる人も増えて、低予算ですが映画を制作できることになりました。撮影場所をロケハンし、民家や本屋で撮影する際には使用料を交渉。役者はオーディンションで集めると300人ぐらい来てくれました。制作スタッフ30人ほどで10日間撮影を行い、半年かけて編集をして、90分の長編映画が完成しました。ハーモニカを吹くミュージシャンの話でタイトルは『FLOATING AWAY』。自主制作作品を対象にしたアメリカの映画祭に出品すると、監督賞と作品賞を受賞しました。映画祭の後は、予告編のDVDとチラシを持って、サンタモニカの映画見本市に売り込みに行きました。映画を売りたい人と買いたい人がたくさん集まっている中での売り込み。なかなかシビれる体験で寂しくて泣きたくなりました。もともとシャイなのに勇気を振り絞って声をかけても話を聞いてもらえない…。この時、自己紹介する時にはiPadですぐに映像を見せたり、質問されたら一言で端的に話さないと聞いてもらえないことを学びました。見本市では、オーストラリアのオンライン配信会社が作品を買ってくれました。

2015年にカナダから大分に帰り、映画・映像の制作会社『株式会社アモルファスフィルム』を立ち上げました。『アモルファス』には原子や分子が変わり続け安定しないという意味があります。『安定しない』というところがいいなと思って社名にしました。中学では柔道、高校からは少林寺拳法と、武道をやり続けて学んだことは、『安定しないから動ける』ということです。人が前進する時は、片足を上げ不安定になるから、前に進むことができます。カメラの三脚だと安定しますが逆に動けなってしまう。不安定を繰り返すから、前に行ったり後ろに行ったりできる。不安定だからいいんだと言うことを武道で学び、大切にしたい考え方だと思って社名にしました。今はカナダに移住し、次回作の構想を練っています。あと5年で映画2本は作りたいです。そのうち1本は、世界中で公開される映画を作りたいと思っています。自分が作った物語を、言葉の通じない人達、会ったこともない人達と共有したいです。新しいことをしようとすると、周りの人から「やめたほうがいいよ」と言われがちです。でも、みんながダメと言ってもやりたいことをやったほうがいいと思います。学校では、前にならえ、右向け右と教えてもらいましたが、学校を卒業した後、企業やビジネスの現場では、前にならわない方が良くて、誰もやらないことにこそ価値があります。新しいことをやる時はリスクはありますが、これは直感ですが、これからは何もやらないことの方が一番リスクがあるのではないかと思います。人生はやったもん勝ち。今は、何か作りたいこと、やりたいことは簡単にできるようになっています。形にとらわれ図、自分から仕掛ける側に回ったほうが良いのではないでしょうか。これからは、そういう人がどんどん増えてくる気がします。

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